中日ドラゴンズの黄金期を築いた落合元監督のオレ流指導

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今回のテーマは、落合博満元監督のオレ流指導について

この記事は以下の内容になります。

  • 落合博満元監督とは
  • 落合元監督は練習量が多いことで有名
  • 過酷なオレ流シーズン・キャンプ

中日ドラゴンズを常勝チームにした落合元監督のオレ流指導について紹介します。

ぜひ最後までご覧ください!

【筆者情報】

落合博満監督とは

落合博満氏は「オレ流」で有名な元プロ野球選手です。

現役引退後は野球解説者 や野球評論家として活動しています。

1953年生まれ、秋田県南秋田郡若美出身です。

現役時代に所属した球団は次の通りです。

所属球団年数
ロッテオリオンズ1979年~1986年
中日ドラゴンズ1987~1993年
読売ジャイアンツ1994~1996年
日本ハムファイターズ1997~1998年

1979年から1998年までプロ野球選手として活躍しました。

現役時代の獲得タイトル

落合元監督が獲得したタイトルは下記の通りです。

獲得タイトル獲得年
史上最年少三冠王獲得1982年
2度目の三冠王1985年
史上初3度の三冠王1986年
正力松太郎賞2007年
野球殿堂入り2011年

​​現役時代は史上最多の3度の三冠王を獲得しました。

中日ドラゴンズ・監督時代

2004年から2011年まで中日ドラゴンズの監督を務めました。

落合元監督が名将といわれる理由は次の通りです。

  • 2004年から2011年まで全てAクラス(3位以上)入りを果たす
  • 8年間Bクラス(4位以下)なし
  • 4度のリーグ優勝
  • 1度の日本シリーズ優勝

8年間すべてAクラス入りを果たし、常勝チームとなりました。

そのため落合監督時代は、中日ドラゴンズの黄金期といわれています。

監督退任後は、2013年シーズンオフから2017年1月まで中日ドラゴンズのゼネラルマネージャーを務めました。

落合元監督は練習量が多いことで有名

落合元監督は、練習量が多いことで有名で、「誰よりも練習をやっていたと自負している」と語っています。

現役時代の有名な練習法に「正面打ち」があります。

通常のバッターボックスではなく、マシンと正対する形で、ホームベース上に立ちます。

ボールを打つには、肘を畳んでバットを内側から出す必要があります。

バットが外から回る「ドアスイング」になってしまうと、空振りしてボールが体に当たってしまいます。

右肘が体の背中方向に入る癖を直すために、このような練習方法を取り入れたと明かしました。

キャンプでのオレ流!下半身ができてからでないとバットを持たない

現役時代は2月のキャンプでは、中旬以降に初めてバットを使って練習していました。

下半身ができてからでないとバッティングをしないことを徹底していたためです。

ちなみに、2023年の横浜DNAの宜野湾キャンプでは初日の2月1日から打撃練習が行われています。

また、キャンプでは全体的なバランスを見るために、室内の密室の中で打撃練習をすることが多かったそうです。

落合元監督は「天才は少ない練習で大きな成果を挙げるといった考えは幻想である」と考えていました。

圧倒的な練習量と独自の練習方法が3度の三冠王獲得に繋がったのでしょう。

過酷なオレ流シーズン・キャンプ

落合元監督は、移動日や休養日である月曜日も単なる調整日にしませんでした。

落合監督時代は、シーズン中に休みはありませんでした。

その理由は次の通りです。

  • プロに必要な体力と技術をつけるため
  • 野球が上手になるため
  • 選手生命を伸ばすため

プロとして必要な体力と技術があり、その基準に届いていなければ試合以外の時間を使って練習するしかありません。

「上手くなる為に、選手生命伸ばす為には、当たり前なことやらせたっていうだけのことだよ。特別なことをやらせたわけじゃないよ。」と落合元監督は語っています。

しかし、ただ単に時間を長くやらせることだけが目的ではありませんでした。

「調子が悪ければ、できるまで時間を伸ばしてでもやる」というオレ流スタイルでした。

落合元監督の地獄のノック

練習では落合元監督自らバットを持ちノックをしました。

あまりのキツさから「監督のノックはキツいから嫌です」と逃げた選手もいたそうです。

最後までやり遂げたのは、荒木雅博選手と井端弘和選手と森野将彦選手だけでした。

結果その3名は選手生命も長く、長期間活躍していました。

落合元監督は「やらない人はやったようなことをいう。

やる人は平然と普通な顔をして物事に対応しようとする。」と自身のYouTubeチャンネルで語っています。

6勤1休の地獄のキャンプ

落合元監督の新たな試みにキャンプの「6勤1休」スタイルがあります。

当時も今もプロ野球界のキャンプの“常識”は「4勤1休」でしたが、「6勤1休」に変更しました。

シーズン中は基本的には火曜日〜日曜日まで6連戦なので、キャンプもシーズンに合わせたためです。

また、球団はキャンプに億のお金を使っているのでキャンプを無駄にしたくなかったのも理由でした。

落合元監督はキャンプで選手全員に過酷な練習をさせていました。

選手たちを見る上で練習量を一番チェックしていました。

練習量を見て、次のことを確認していました。

  • 与える練習量をこなせるかどうか
  • 体力があるかどうか

選手は朝7時から、沖縄が真っ暗になる夜の7時過ぎくらいまで、徹底的に練習しました。

若手選手の中には、夜の8時、9時まで練習していた人もいたそうです。

落合元監督は、各選手が10%底上げすれば優勝できると考えており、普通のことをしているだけではできないと思っていました。

「10%の底上げ」を実現するために、選手に猛練習をさせていたのです。

「選手たちをうまくするためには、そうせざるを得ない。普通のことをやってたら、普通で終わる」という信念を貫きました。

落合監督時代の中日ドラゴンズの元選手の中には「今も那覇に着くと動悸と吐き気がするんです」という人もいるそうです。

2004年のオレ流キャンプ・初日に紅白戦

落合元監督は、キャンプ初日に紅白戦を行いました。

キャンプ初日の2月1日から紅白戦では選手全員を出場させました。

異例の試みにバッシングを浴びましたが、紅白戦によって選手の仕上がりが早かったのです。

また、投手はこの時期にしっかりと投げられるように調整してきました。

その結果、オフシーズンを無駄にすることなく、選手たちは練習を継続してキャンプに臨んでいたのです。

落合元監督は、選手たちのシーズン中の動きを見て、体力がついているのを実感しキャンプの成果を感じたようです。

ベテラン・主力10選手の練習メニューは白紙

若手選手中心の北谷球場は、夜遅くまで徹底的に基本練習を行いました。

一方でベテラン・主力の10選手は読谷球場に配置されましたが、練習メニューは白紙でした。

立浪、川相、福留などの10選手には白紙の練習メニューが渡されました。

ウォーミングアップは全員で行いましたが、その後は、やりたいことがあればコーチに言う自己申告制でした。

徹底的な練習をさせる一方では、このように放任し選手の自主性を尊重する一面もありました。

オレ流で中日ドラゴンズを常勝チームに導く

猛練習の結果、2004年に監督就任1年目でリーグ優勝に導きました。

2004年は「練習したら上手くなる、強くなる」ということを選手に意識づけるために必死だったと落合元監督は明かしました。

このような落合元監督のオレ流指導の結果、2004年からの2011年の8年間、中日ドラゴンズは全年Aクラスという黄金期になったのです。

まとめ

以上、中日ドラゴンズの黄金期を築いた落合元監督のオレ流指導について紹介しました。

強くなるためには、その分練習が必要ですね。

最後までご覧いただきありがとうございました。

以上、読者の皆さんが今よりもっと野球が好きになり、技術向上できるようにこれからも情報発信していきたいと思います!!

最後までご覧いただきありがとうございました!

ブログ名 岡村雄斗「魂の野球ブログ」

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